最近、朝起きるとお気に入りのはてなブログを読みながらコーヒーを飲むのが最近の日課になっています。
今朝一押しの記事がこちらでした。
タイトルを見てイキナリなに言ってんだぁ?!となったんですが、どうも元記事があって、それに対する反論らしく、読んでみたら納得。
その問題の元記事がこちら
僕はボランティアを否定しません。僕はやらない善よりやる偽善だと思っています。その行動で救われる人がいるのであれば、動機がどれだけ俗物的なものであっても価値はあるだろうという考え方です。 ただ...
www.ryukke.com
でも、皆さんのブログを読んで納得!!ってだけじゃ今回はちょっと物足りない。いや全然足りない。
これに関しては私も一言言いたいです。 言わせて!
炎上商法なんで、周りがあ~だこ~だ言うのは相手の術中にはまってるわけですが、それでもひとこと言いたいから言っちゃうよ。
- そもそも私は海外ボランティアに懐疑的だった
- ボランティアやるくらいなら、働いてお金を寄付したほうが良いのか?
- ボランティアで得られる価値は「安心という快楽」なのか
- 自分が成功できないと思っているかどうか?
- 最後にまとめ
そもそも私は海外ボランティアに懐疑的だった
私は元々海外ボランティアなんてもんにはこれっぽっちも興味がありませんでした。
だから、それが良いとか悪いとか考えることすら無くついこの間までのほほ~~んと過ごしてきました。
ところが、つい先日大学生になる息子が急に海外ボランティアに行くと言い出しました。 息子が行くと言ったボランティアは、 東南アジアへ行って家を建てるというNPOに参加するというものでした。
私は海外ボランティアに対する理解など皆無だったので、「なにをアホなことをいってるんだ?」「ボランティアなら国内でもいいだろ?」と反対をしました。
当然、彼とは意見がぶつかるわけで、その後たくさんの議論をしましたが、結局私は海外へ行くことを許可しました。
許可したものの、色んな意味でボランティアへ行く気持ちを半信半疑で見ていました。
先日そのボランティアの成果発表会のようなものに呼ばれて、その発表を見てきましたんですね。
そこでは、彼らが経験してきたもの、学んだもの、大変だったこと、楽しかったことなどをスライドやビデオで一生懸命発表していました。
そんなひたむきな若者の姿を見て、彼らが遊びや自己満足だけで行っているわけでは無いんだなと、私は確信しました。
ボランティアやるくらいなら、働いてお金を寄付したほうが良いのか?
やまもとりゅうけん氏曰く、
ただ、ボランティアなんてやるくらいなら、自分がとっとと実業で成功してお金持ちになって寄付しまくった方が喜ぶ人は多いはずなんですよね。合理的に考えると。
僕が海外ボランティアと風俗を同列に見る理由 | RYUKEN OFFICIAL BLOG より引用
なんてことを言っていますが、
世の中全て合理的が正義じゃないんだよ!
確かにお金を送ることでも困っている人を助けることはもちろん出来ますよ。だけども、現地の人と触れ合いながら若者がボランティアをすることの意味は、それだけじゃないはずです。
目的のものがなんであれ、その目的を果たす為にお金だけで解決する場合と、そのプロジェクトに何百人何千人の何カ国もの学生が関わって目的を達成した場合とでは、出来上がったものが同じでも、それにかける人々の思いの重みは違うんじゃないですかね?
お寿司に例えるなら
ちょっとチープな例えで申し訳ないけども、、、
機械で作った回転寿司と、学生が大勢で海へ行って魚を釣って、一生懸命捌いて、不器用な手で握った寿司、どちらが美味しいと感じるでしょうか?
たとえ同じネタで同じ握り方だったとしても、少なくとも私は後者の方が有難いし心に残るし、美味しいと感じます。
プレゼントに例えるなら
大好きな彼女にプレゼントされる際、現金を貰ったほうが嬉しいですか? 一生懸命手作りしてくれたセーターとではどちらが嬉しいでしょうか? 私は後者の方が数倍、いや数百倍嬉しいと思います。
例えが相当古い気もしますが……。
ボランティアで得られる価値は「安心という快楽」なのか
次に、以下の問題について
ボランティア活動で得られる価値は「安心という快楽」なんですよね。自分より「持たない者」と生身で触れ合い、彼らに尽くすことで「豊かな自分」を強く認識できます。後輩にドヤ顔で「ありがたい話」をしてやろうとするのもこのような精神性からくるものです。
これは全くの間違いですよ。
というか、見識が狭すぎますよ。
そもそも、これはやまもとりゅうけん氏が自分自身で思うことですよね?
自分が何を思っても構わないけど、それが世の中全ての人だと思うのは間違いです。
幸せの尺度が違う
ボランティアに行く彼らは、現地の人たちを恵まれないとか弱者だとか、そういう目では見ていないんですよ。 たとえ見ていたとしても、プロジェクトに関わって準備をしていくうちに、その間違いに必ず気付くはずです。少なくとも現地に行けば必ず考え方が変わります。
帰ってきた学生達曰く、本当に幸せそうに暮らしている現地の人たちと関わって、幸せっていうのは便利な生活とか都市の発展度は関係ないんだってことを再認識したと言っていました。
こういう言葉っていうのは、言葉や頭で分かっていても実感しないと、本当の意味で理解はできないもんだと思います。こういう経験をするのも、ボランティアで得られる価値だと思います。
これは、日本にいて事業を成功させて大金持ちになったとしても、絶対に得られない経験です。
そもそも、幸せの尺度ってのは人によって違うんです。
普通に日本で生活していたら分からない幸せってもんがあるんじゃないですかね?
感謝の気持ちってそんなに忘れちゃうもん?
次にこの発言もありえないくらいキツイですね
風俗嬢が客の顔なんて覚えていないのと同様、現地の人間からすると自分を救ってくれる日本人なんてどの日本人でもいいわけですよ。心の交流どうこうで勝手に舞い上がっているのはボランティアマンだけです。そこだけは少し彼らに哀れみを覚えます。
まさか、やまもとりゅうけん氏は自分を助けてくれた人の顔も名前も、時間が経つと綺麗サッパリ忘れちゃうってことなんでしょうか??
ボランティアに関して言えば、きっと現地の人は、一人ひとりの顔や名前はさすがに覚えていないかも知れませんが、世界中の学生たちがボランティアに関わってくれたことを確実に覚えているんじゃないでしょうか?
これは現地に居る人達みんなが、学生たちに語っていました。
自分たちの家を大工でもない学生たちが建ててくれたことを嬉しそうに語っていた映像は嘘を言っているとは思えません。
もし私だったら、大変なときに助けてくれた人は絶対に忘れないと思います。
自分が成功できないと思っているかどうか?
コレに関しては、もうボランティアに参加して得られるモノの考え方が違う為、議論すら出来ない感じです。
成功してお金を稼いで誰かに貢ぐ事が目的じゃないから、成功するとかしないとか関係無いんでしょうね。
そういう土俵で物事を考えてはいないと私は思っています。
現状出来る限りのことをするっていうことに関しては、当然だしもっともだし、それで良いんじゃね? がんばれ!って応援しますね。
最後にまとめ
とにかく、色んな意味で価値観が違うんじゃないですかね?
全てお金か?? 合理性か?? って話ですよ。
誰かを助けるとか、誰かに助けてもらうっていうのは、お金とか損得じゃない何か特別な感情が芽生えるわけで、それが大切なんだと思います。
それが自己満足だろ!って言われたら、それはその人の価値観次第なわけで、その領域に他人がとやかく言う必要もないだろと思うわけです。
「誰かを豊かにしたい」は、「誰かを自分の思い通りにしたい」の延長じゃないんです。
「誰かを助けたい」は純粋に「誰かを助けたい」なのだと思います。
「誰かを助けたい」っていう気持ちだけで、海外に行く経験も何にも変えられない貴重な経験だと思いますよ。
それで十分って思います。
今回はかなり親バカ入ってますが、まぁたまには勘弁ね。
つ~ことで、じゃ、また(^.^)/~~~